肢体不自由児施設の歴史

故 高木憲次先生
故 高木憲次先生
わが国の肢体不自由児施設の原型は、歴史的にはドイツのクリュッペルハイムと呼ばれた身体障害児のための施設にあります。肢体不自由児施設の生みの親とも言うべ東大整外科名誉教授であった高木憲次先生(以下高木と記述する)は20世紀初頭のドイツのクリュッペルハイムを見聞された後に日本にも是非これが必要であるとして、ご苦労されて東京整肢身療護園を作られ、現在のように全国に広がる肢体不自由児施設の基礎を作られました。彼はその時のドイツでの感慨とわが国にクリュッペルハイムを作る決意をした経緯を次ぎのように記述しています。

---第一次欧州大戦後の乏しき資材をいろいろと工夫して、肢体不自由児の療育に勤しめる敗戦国ドイツのクリュッペルハイムを参観し、啓発されるところが多大であった。当時約100になんなんとする施設が全国に布置されていることと、就中、ベルリンのダーレム、ミュンヘン郊外のハルラヒングのイサール渓やハイデルベルヒのネッカア河畔にそびゆる壮大な施設と完備せる設備には驚異の目を見張った。--(中略)--決意、イサールの崖に立ち、当時戦勝国と誇りながら、唯一のハイムさえ持たざるわが国肢体不自由児の上を偲び、暗澹たる心の裡に誓ったことは「帰朝後(1)先づ肢体不自由児の精神的擁護策を考えよう。(2)手術者たる者は手術後、罹患肢体の回復によって患児生産能力を獲得したことを見とどけるべきである。それには、治療施設が不可欠であるからその設立に専念努力しよう」という二つの念願であった。---

ドイツからの帰国後、高木は大正13年(1924年)に国家医学雑誌に「クリュッペルハイムに就いて」の論文を発表し、その設置の必要性を説いて居ます。

「クリュッペルの救済については整形外科が主要な責任者であるが、ただ疾患部位の治療だけをしたのでは不十分で、更に進んで教育を授け適応技能を養い、自活の道の立つようにしなけれは独立市民の資格にはならない。クリュッペル救済事業には整形外科的治療、特殊教育、手工および手芸的訓練、及び職業相談が協力してその目的を達しうる--中略--クリュッペルハイムの設立はもちろん必要であるが、不具児は一室に閉じこめられ、兄弟の通学姿を羨みつつ、一家の厄介者として扱われ、教育もされず悲惨な境遇にあるので、これを探し出し整形外科治療を施し更に教育を授け社会的独立を与えることは国家医学界の重大な問題であると信ずる--後略」

日本の肢体不自由児施設設置へつながる高木の基本的なアイディアには、社会医学的視点や教育から社会参加に至る総合リハビリテーションにつながる発想が有ったことは注目したいと思います。

戦前の、昭和17年(1942年)5月に東京整肢身療護園が開園する事になりますが、良く知られているようにこの整肢療護園は昭和20(1945年)年3月9日の東京大空襲で灰燼に帰すわけです。

戦後の諸制度の整備の中で昭和22年(1947年)12月12日に児童福祉法制定されますが、高木の尽力によって児童福祉法第43条の3に「肢体不自由児施設は上肢、下肢または体幹の不自由な児童を治療するとともに、独立自活に必要な知識技術を与えることを目的とする施設とする」として肢体不自由児施設が法的、制度的に位置づけられることになり、昭和26年(1951年)には、空襲で焼け落ちた施設が法に基づく肢体不自由児施設・整肢療護園として再建復興され、現在の心身障害児総合医療療育センターの基礎が作られました。

しかし、法律に位置づけられたからといって全国的には直ちに各県に設置されるという訳には行きません。そのような中、高木は厚生省の依頼を受けて療育チームを編成して全国各都道府県を巡り療育相談と講演を行って事業の広報に努められました。昭和24年(1949年)12月13日、茨城県の水戸を振り出しにして九州、四国、山陰、東北、北海道、関東、東海、昭和26年11月19日に山梨の大月まで全国をあまねく巡り歩いての巡回相談が行なわれました。その結果として各地に肢体不自由児施設が設置されてゆくのですが、全国に設置されたのはさらに10余年後の昭和38年(1963年)だったといわれます。

全国設置ができた昭和39年から全国肢体不自由児施設運営協議会(通称を「運協」と呼んでいます)の施設長事務長会が開催され始め、以後、時の経過とともに様々な課題について議論がなされ肢体不自由児施設の在り方論も変遷し現在に至っています。

別府発達医療センター顧問
佐竹 孝之